立秋
(りっしゅう)
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秋たつや川瀬にまじる風の音 飯田蛇笏
二十四節気の一つ。秋の始めであり、太陽暦で今年は八月八日が該当する。まだ暑い日が続き、学生もまだ夏休みの真っ最中とあって、何故秋なのか、との疑問がないわけではない。しかし、「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる(藤原敏行・古今集)」などの歌があらわす心が立秋の本意であり、秋のかすかな気配を感ずる感覚、立秋の日というきまりが呼び起こす秋意をこそ、日本人の詩(ポエム)の原点として思わないわけにはいかない。 掲句は、そうした古今集以来の伝統を如実に継承する。山国に住む作者は、水量豊かにゴウゴウと流れる川を眺めながら、昨日と違う風の気配を聴きつけている。今日から秋、あるいはいよいよ秋か、との覚悟も意識の底流にあるのかも知れない。詩人としての研ぎ澄まされた感覚が窺える一句。
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流星
(りゅうせい)
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星飛んで星座の琴を鳴らしけり 河合 清
流星とは、地球の大気圏に突入した宇宙塵が高速度で落下するときに加熱され発光するもの。大気中で焼尽しきらず地上に落下したものが隕石である。普通、流れ星と呼んでおり、凶事異変や願い事などに結びつけて語られることが多いが、流星は澄んだ秋の夜空を美しく演出する。明治以前の通称は「よばいぼし(婚星・夜這星)」(ちょっとロマンチックなイメージが損なわれますね)。 掲句に言う、星座の琴とは琴座のことであろう。首星はベガ、すなわち織女星。牽牛と織女が七夕の夜に会っているところへ夜這星がやってきて、雷の夫婦げんかの 様を注進する、との話とは何の関わりもないのであろう が、やや意味深ではある。しかし、この句は単に、琴座をかすめるように星が流れた。その瞬間、作者には琴の音色が聞こえた。それだけで良いと思うし、それで十分だと思う。「琴を鳴らしけり」の断定が心地よい。
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踊
(おどり) |
輪を少し縮めて雨後をまた踊る 吉年虹二
踊にはいろいろあるが、俳句で「踊」といえば盆踊を意味している。盆踊りは、盆に招かれてくる精霊を慰め、また送り盆には村の外へ送り出すためにたむけられると考えられており、盆の13日から16日にかけて町内の広場や校庭などに老若男女が大勢集まって行われる。踊の輪の中央には櫓が設けられ、ここには大太鼓や笛・鉦などの囃子方が陣取ることが多い。歌い踊りながら町を流して歩くものもある。徳島全市を踊の渦と化す阿波踊は有名。
さて掲句。踊りの最中に夕立でもあったのであろうか。家へと避難した人も少なからずいたに違いない。雨が止めば、何事もなかったかのように踊りが再開された。「輪を少し縮めて」は見事な措辞。雨による一時中断という現実をさらりと活写し、踊りに戻る作者自身の心持までをも窺わせている。
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萱草の花
(かんぞうのはな) |
ふる里は今萱草の島となり 天野厚子
萱草は、田の畦や野道、用水の端、空き地などに鮮やかな赤橙色の花を咲かせる。高さは一メートル弱ほどの多年草。花は明け方に咲き、夕方にはしぼむ一日花である。古くから見られる花で、古名を忘草(忘憂草)という。中国語では萱は「人をして憂を忘れしむる艸なり」とされる。この草を持っていると憂いを忘れることができると言われ、お守りのように持ち歩かれたらしい。
しかし、掲句はそうした中国語の意味とは全く無関係。ふる里の島に降り立った作者は、萱草の花一色の島に改めて「我が故郷」を強く感じたのである。何がふる里のキーワードになるかは人それぞれであろうが、作者にとっての萱草の花はまさにふる里を象徴するものだったの
である。「今」もよく働いている。
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