早 苗
(さなえ)
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早苗たばねる一本の藁つよし 福田甲子雄
苗代から田へ移し植える頃の稲の苗を早苗という。日本では古来から、種籾を苗代田に播いて稲の苗を育てる、という栽培方法を行ってきた。20センチほどに育った苗は、いよいよ田に移し植えられるわけであるが、玉苗、若苗などとも言われ、みずみずしい緑や小さなのびのびとした生命が愛でられる。「さなえ」の「さ」は神稲の意とも言われる。早苗という言葉には豊年への希望も込められているのである。
その早苗が一本の藁でしっかりと束ねられている。機械化以前はみなこのように束ねられていたのである。「一本の藁つよし」は実感であろう。しかしこの「つよし」には、早苗の繊細なみずみずしさを強調する働きがあるだけではなく、強い早苗であることを願う気持ちもその底流に流れていると理解すべきであろう。
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河 鹿
(かじか)
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河鹿笛枕に旅の耳二つ 小笠原和男
河鹿とは、蛙の一種、カジカガエルのことをいう。山間の谷沿いに生息する。4〜7月の繁殖期に雄は、渓流の岩の上などで高く美しい声で鳴く。暮れなずむ頃から宵にかけての河鹿の声は、古くから人びとの心をとらえてきた。古歌の蛙の多くは、このカジカガエルの鳴き声を詠んだものだという。和名は、この鳴き声を秋のシカになぞらえたもの。河鹿の絶唱は、清涼感を超え、恋の喜び、せつなさ、やるせなさまでをも聞くものに感得させるようである。
掲句の作者が、どのような思いで河鹿の鳴き声を耳にしていたのかは詳らかではない。しかし、「耳二つ」にその思いは十二分に込められている。旅寝にて聴く河鹿の鳴き声。悲しいまでに身に沁み入る。故郷のこと、家族のこと、来し方行く末等々、様々なことが去来していたに違いない。
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万 緑
(ばんりょく)
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万緑や死は一弾を以て足る 上田五千石
見えるかぎりの緑を「万(ばん)」という強い響きの言葉で表現した。夏の緑のみなぎる活気・生命力がよくあらわされており、現代俳人の好む季題の一つとなっている。しかし一般化されたのは、中村草田男の「万緑の中や吾子の歯生え初むる」という、一面の緑に包まれた中での生命讃歌が、多くの俳人の共感を得てからのことであり、比較的新しい。なお、万緑は「万緑叢中紅一点、動人春色不須多」(王安石)から採られたといわれる。
掲句は、生命力の象徴としての「万緑」を力強く肯定しながらも、命というものの儚さを「死は一弾を以て足る」と詠んだ。旺盛な生命力を賛歌しきれない心情は、その時の作者の心理状態を示しているのであろう。しかし、表現はあくまでも力強い。一抹の不安を抱える繊細な神経は隠蔽しきったかに見えるのだが…。
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蛞蝓
(なめくじ)
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蛞蝓といふ字どこやら動き出す 後藤比奈夫
蛞蝓は不幸にも、古くから「いみじうきたなきもの」(『枕草子』)とされてきた。この評価は現代でも変わる気配はない。台所や風呂場などの湿潤なところを好み、夜になると、あのぬめぬめとした粘膜に覆われた全身から銀白色の筋を残しながら徘徊する。うっかり踏もうものならまさに一生の不覚。気持ちの悪さこの上ない。塩をかけて退治するに限る、などとつい思ってしまう。屋外では、野菜や果樹に害をなす。「でんでん虫」と同類ながら、片や古くから子供たちの遊び相手としてかわいがられ、一方は蛇蝎のごとく嫌われる。同じ命あるものながら、あわれではある。
掲句のように詠まれると、蛞蝓という字はナメクジという実体と不可分に思えてくるから不思議だ。しかし、〈??といふ字どこやら跳ね出す〉などという類想句が幾つでも出てきそうだ。一回限りの機知の句と言わざるを得ないのかもしれない。それにしても作者の大らかさが思われる楽しい句である。
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